あなたと一緒にあの月へ


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「……そんな事があったんだ」
 とんとスマートホンの画面を叩いて、私は静かに目を閉じた。
 未知と不思議を求めて冒険をつづけた科学世紀の秘封倶楽部。
 その物語の終端は、二人の離別でエンドマークを刻んでいる。
 やりきれない気持ちで画面を閉じ、スマートホンを自宅の机の上に転送アスポート。喧騒の続くテーブルの向かい、誰もいない空席に視線を落とす。
「…………」
 卓上には冷めたフライドフィッシュとオレンジのノンアルコールカクテル。グラスの端に少しだけ口を付けて、テーブルにできた水滴の輪に、もう一度グラスを戻した。
 旧約酒場――デイトレスバー・オールドアダム。
 科学世紀の一隅に設けられた、旧型酒専門の奇妙な酒場。
 明らかに女子高生が立ちいっていい店ではないのだけど、マスターは私の出入りにも何の口も挟まなかった。未成年だってわかるのに入店を拒否らないお店にも問題がある気はしたけれど、いまは五月蠅いことを言われないのはありがたい。
 店の片隅のテーブルで、私は一人、冷めた料理と氷の溶けかけたカクテルを口にする。
「秘封倶楽部の、終端か」
 宇佐見蓮子と、マエリベリー・ハーン。
 科学世紀に秘封倶楽部を名乗った彼女たちは、非合法のサークル活動でいくつもの境界を暴き、人知を超えた幻想オカルトに触れ続けた。恐らくは、その果てに待つ出来事を知らないままに。
 オカルトへの接触がもたらした副作用は二人の持つ異能の増大だった。
 境界の隙間を見つける眼と、自分の居る時と場所を定める眼。二人がそれぞれにその力を増した結果、マエリベリー・ハーンは宇佐見蓮子の前から姿を消す。
 境界を自在に操り、事象の隙間に潜む超常の存在となった彼女メリーは、いわば不確定事象の塊。月と星空の下で時間と場所を視る少女蓮子には、決して見えず触れず、声も聞こえない、その名すらも認識できないものだった。
 ゆえに二人は離別を余儀なくされた。そしてそれは二人が秘封倶楽部である限り、秘封倶楽部たらんとする限り、永劫に続くことを宿命づけられたものであった。
「皮肉な話、よね」
 二人が出会って始まったサークル活動なのに、それを続けようとする限り、二人は共に居られない。どうせなら、初めから一人であれば良かったのに。そう思ったことだってあっただろう。けれどそれは許されない。
 彼女は、二人が出会って始まった物語の最果てに生まれたのだから。
 そうして。彼女メリーは活動を始めた。
 彼女はもう、人間ではなかったから。事象の隙間に在り、自在に事物の境界を弄るその無限とも思える権能をもって、唯一無二のパートナーを再び取り戻すべく、あらゆる手を尽くした。
 二人がともに追いかけた記憶をたどり、関わったオカルトを探し求めた。あらゆる物事の隙間にある彼女にとって、時間も空間も意味がなかった。彼女の活動は多岐にわたり、あらゆる条理を超え、やがて世の理から排斥された不思議を集めるに至る。
 そうして築かれたのが、東の果ての楽園。幻想の集う無何有の郷。
 世界からこぼれ落ちたありとあらゆる幻想を集めたその楽園の構築には、万能たる彼女も多くの労力を要した。彼女にとって理想の相棒を探求する、長い長い試練であったかもしれない。
 けれど、彼女は気付いてしまう。
 果てしない試みの果て。北斗七星が北極星を飲み込み、オリオンが散り散りに砕ける程までの途方もない試行と思考を繰り返し、万物に通じる聡明なその知性をもって、なお。
 自分が存在する限り、どうやっても宇佐見蓮子だけは手に入れることができない
のだと。この東の果ての楽園の完成型は、彼女が求めるあらゆるものから、宇佐見
蓮子という少女だけが欠落しているものなのだと。
 欠け落ちたジグソーパズルの1ピースの、周りだけを埋め続ける作業に等しい。
「…………」
 いつの間にか。
 私の前には、グラスを薄紫の色合いに染めるブルー・ムーンのカクテルが置かれていた。グラスと冷めた料理は綺麗に片付けられ、テーブルの汚れも消えている。
 ちらりと視線を上げた先で、マスターはただ、グラスを磨き続けるだけ。
 しばしカクテルを見下ろして、私はえいとそれを飲み干した。強い酸味とアルコールが舌と喉を刺激する。けほと口元を覆って、眼鏡のフレームに触れる。
「……ねえ。あなたがあんなにも月を求めたのは、あの日の約束のため?」
 ブルー・ムーンの意味は確か『できない相談』、あるいは『幸福な時間』。
 いつか、一緒に月に行きましょう。
 それは、宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンが叶えられなかった約束だ。永遠の生命や、万能の英知、あらゆるものを隔てる境界なんて力に比べれば取るに足らない、他愛もない、女学生がカフェのお喋りに語ったささやかな未来の月世界旅行。
 けれど、それも同時に不可能な事象へと変貌した。
 二人の大切な約束、その終着点。
 彼女メリーが求めれば求めるほど、それは困難になる。試みた二度の月面侵略は、一方的な物語の修正力で彼女の敗北を運命付けられた。理不尽に覆る運命の力を、彼女は舌禍の女神として喩えたかもしれない。
 そうして月は彼女にとって、彼女の作った楽園にとって、神聖不可侵の場所になったのだ。

 大きく旧きものは、サイコロ遊びなどなさらない。

 日付無き旧約酒場。
 時も場所も、曖昧なその場所で、集められた無数の秘封倶楽部。
 この幻想オカルトは、彼女にとってささやかな慰みであるとともに、事実の確認のようなものだった。宇佐見蓮子と共に過ごす自分を探すための、初めから不可能が分かり切った試行の繰り返しだ。
 何処でもない時間、何処でもない場所にある旧約酒場の一角で。
 ひたすらに反復されるのは、無限回の試行の中でサイコロの6の目を無限に積み上げるような徒労。それが絶対にあり得ないほどに低い確率でも、無限回を繰り返せば、いつか辿り付くのではないかという稚気染みた願いを込めて。
 己の願いは、6面体のサイコロで7の目を無限に出し続けるような行為だと知りながら。
「あなたは、ずっと諦めなかった。あの日の約束を果たそうとした」
 境界の住人。妖怪の賢者。多元世界の狭間の旅行者。
 彼女マエリベリー・ハーンがその真名において、宇佐見蓮子と交わした旧き約束の酒場。
 そう。
 これはそんなオカルト
 だからこそ、私はそこに入り込むことができた。だって、私はオカルトを実現する手段を知っている。夢の中を自在に歩く術を知っている。
 だから気付いた。この旧約酒場こそが、「秘封倶楽部」の紺珠オカルトボールであるということに。
「それは、宇佐見蓮子だって同じだったのよ」
 そうして私は顔を上げる。
 カウンターの向こう。静かにグラスを磨く、彼女に向けて。
「あなたの前に、宇佐見蓮子が現れることは決して無い。それは間違いないの。……でもね」
 こうして、ここに私がいる。
 科学世紀の黒猫、シュレディンガーの化猫。
 最後のオカルトにして現し世の秘術師。
 その権能オカルトは、もう一人の自分ドッペルゲンガー。だから私は、こうして、居ないはずの場所にいられる。
 この旧約酒場に。
 ……あなたの、目の前に。
「私は宇佐見菫子。
 初代秘封倶楽部会長として、あなたをこの秘封倶楽部に迎えるわ」
 伸ばした手の先に、目を丸くする紫と金の輝きをじっと見据えて。私は二枚綴りのチケットを示して見せた。
 この遥かな銀河を、多元世界の海を駆け抜け、はるか遠い冒険の物語の終着点――月を目指す銀河鉄道の、特別指定席、二枚。
 
 サイコロ二つの平均値は、7。
 一人じゃ絶対に不可能だって、二人でならばこんなにも簡単なことだ。

「さあ、行きましょう! サークル活動の始まりよ、メリー!」


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